読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

日々のこと

気が向いたときに好き勝手書いてます

繰り返される起承転結

単純に生まれた時が物語の始まりとなる「起」で、死ぬ時が物語の終わりになる「結」なら、大抵の人の「転」は33歳までには訪れていると思ってる。時間配分が均等に割られていることはあり得ないけど、まあ「転」が一つというわけではない。日常生活の中における多くの(人によっては数少ない)出会いと別れだって起承転結の一つで、常に小さな起承転結が同時進行も含め繰り返されている。簡単にどこかへ出かけることやモノを捨てること(もちろんその逆も)でさえその人に変化をもたらしている。「結」はなってみないと分からないし、その時がこないと「転」だって気付かない。物語の「起」となる1行目は覚えてることもあるけど、5ページ目に書かれてることは大抵覚えていない。起承はたいていその時″がくるまで自然に起こっている。生活は「転」となる可能性をもつ選択の繰り返しで、起承転結は繰り返される。
こんなことを書いてたら洗濯しなきゃとか思い出した。
 

何人かには話してるけれど、引っ越しをする。大それた理由はないけど、ふと少しだけ思ったことがあって、ちょうどそろそろ部屋の更新だったからとか理由はそんなもん。

いつかの自分は自分自信を正当化するための理由を上手いこと取り繕って、やらなかったことがあった。(何がとかでもなく幾つかの起こりうる小さな物事を)。別にそのことについて今更何かを思うこともないし、今更したいわけでもないから気にもしていないけど、当時の自分がどうだったのか覚えてないことを考えてみたりもする。どこかで終わった小さな「結」をもとに「転」を考えてみたけど、分からなかったしどうでもよくなった。
そんなことをグルグルしながら引っ越す理由を考えると、結局は住んでみたかった場所だったことや、今の身を取り巻く精神衛生上良くないものを避けるためなのかもしれない。お金で解決できるものならとりあえず解決してみよう。それでまた問題が生まれたらまた考えたらいい。と、こうして結局今になっても自分を正当化している。
誰かと生活を共にするかもしれないし、自分には無理なことかもしれない。誰かと共に歩むという物事に関して現時点で何の可能性もないうえに、このまま転・結はおこらない可能性も存分にある。現在においてもし万が一時に誰かと生活を共にすることになったとき、自分一人の勝手で好きな場所に住むという権限はない。そうなると住んでみたいところで生活をするという物事においての機会は今が最後だと思った。『起承転結が繰り返される』と言ったのは本当だが、嘘でもある。「転」が起こらなかったり、逃したり、気付かないことがあっても時は進み自身は歳をとるともなれば、「結」はきて物事は勝手に収束している。そう考えたうえで先ほどのことを正しく言えば、『起承(転)結は繰り返される』かもしれない。
 
引越しの準備は終わらないうえに、片付けも終わらない。この物事は早いとこ終わって欲しいんだけど、終わらない。勢いでなんとかなるものもあれば、なんとかならない現実も多くある。